大事なことは地獄のような医療機器営業で学んだ 〜僕の新卒時代の話〜

良い記憶など何一つない医療機器営業時代の自分

新卒で最初に入った会社では本当に地獄のような経験をしたことばかりが思い出される。医療機器メーカーとしていわゆるグローバルニッチな会社であり、当時からボーナスの良い会社ランキングに入るようなイメージのとても良い会社ではあったものの、営業所に配属されてみれば20代は僕一人で一番年の近い人で10歳上くらい、話も全然合わなくて配属初日から途方にくれたものだ。会議は一つ一つ見込み案件を確認していくスタイルで、言ってしまえばつるし上げるように営業活動上まだやっていないことのあら探しをするのが常態化していて、二言目には声を荒げて怒鳴られる。そんな感じだから客先や販売代理店にいる方がよほどマシで夕方になっても針のむしろとなる職場には帰社したくなかったが、それでも17~19時には営業所に戻り、その後は大抵23時くらいまでは仕事。どこかの部署が何か気軽な感じの営業施策を出して来れば、都度それに対して内部報告を行ったり、資料作成も多かったような気がする。今と違って自分で仕事の流れをつかめる感じでもなかったというのもあってか、1年目は何かと運も悪く、とにかく罵られ、何か聞いても極めて不機嫌な回答しか来ず、周りには外れの新人をあてがわれた不幸感も漂っていて、半年後には正直本当に電車に轢いて欲しいくらい追い詰められていた。当時のWindowsXPのパソコンのブラウザにはびっしり自殺に関するブックマークが並んでいたし、通勤に1時間半かかるというこもあってか電車によって地獄の職場へ連れていかされる意識が強かったのだろう、電車に突っ込むことばかりを考えていたもので、今思うとその時の狭くなった視野と思考では通勤という悪の象徴が電車に向かっていったんだろうな、と思う。通勤が長いから近づくにつれ心臓が痛み出したものだ。

そんなこんなだから、1年目の終わりにもう辞めようと思っていたが、いざ4月1日を向かえてみると、その日はよく晴れた朝で、もう1年だけ頑張ってみよう、そしたら結果の如何を問わずに辞めようと奮い立ち(なぜそう思ったのか本当に理由がわからないが朝日と共にそう決心したのは強く覚えている)、しかしながらおそらく相変わらずの憂鬱な顔で出社した。

営業という仕事そのものは肌に合っていた

この頃の話をするとよく誤解されるのだが、営業という仕事そのものは嫌いではなかった。客先でも毎回何か話すネタ(学術資料とか病院運営のことなどいわゆるお役立ち情報)を探してはお客さんとコミュニケーションを取っていたし、プライベートな話をしてくれるお客さんも多かった。営業車を使っていたから何度もぶつけてこれまた怒られまくっていたのだが(この辺は本当に使えない新卒感は出ている)、運転も年間1万キロも走っていれば慣れてくるし、社内の人は車にはいなかったから運転は楽しかった。今から思うと、怒られていた内容、つまり営業のやり方どうこうというよりは、ただ営業数字が伴わなかっただけなのだ。そうは言っても当時は社内での立ち回り方も全然わかっていなかったし、同期も同僚も上司もみな周りの人たちの側にも言い分は色々あるだろうから、よくいう「社会の洗練」を受けたと言えばそれまでなのだが、そうした苦しい状況は2年目の数ヵ月経った頃に打開されることになる。僕自身は何も変えていないし(逆に言うとやれることは全てやっていた。会議であら探しされるのでその刺された内容も実行すると本当にやることをやっているという自負だけは出てくる)、もちろん2年目だからと言って周りの感じも何一つ変わったわけではないが、急に機器が売れたのだ。扱っていた製品は安くて数百万、高いと数千万という病院の設備になるため、基本的には買い換え需要での指名確保が営業の基本的な方針となるのだが、とにかく急に1個売れたのだ。それも新規が一緒に付いてくるから毎月の消耗品売上で見ても何十万という純増となり、そしてそれを皮切りに担当施設100病院くらいあった中から急に買い換えの打診や見積依頼、勉強会の依頼などが相次ぎ、パンチパーマでストイックなナイフ使いのような鋭い顔付きの営業所長がひどく驚いていたのも強く覚えている。いわく「お前の営業は結局正しかったんだな、もちろん相見積もりということもあるだろうけど、普通これだけ皆が皆引き合いをくれたりはしない」。また本部に出向いた際によく知らないで甘くみられた発言を他部署の課長にされたのだが、「いや、こいつはこいつでなかなか面白い、お前にこいつほどやれるか?」と言われたのは心底嬉しかった。

そうなってくると地獄のつるし上げ会議も様子が変わってくる。営業所として足りない数字を埋めるために僕の担当施設があてがわれるようになるし(正直それまでの雰囲気を思うと不思議でならなかった)、ある時運良く唐突に大型機器が売れたことがあったものの、それまで会議の俎上に上げていなかったため逆ギレ気味に怒られて経緯の説明を求められた時には、「いや、ただ単にお客さんにどうせすぐに申請通ったりしないでしょうから買い換えの稟議書いちゃいましょうよ!と焚き付けたら本当に通っちゃってそれで売れたんです、僕も知らなくて」と言うと(実際本当にそうだった)、やや間があって「お前本当に才能あるな」と呟くように言っていた。周りが手のひらを返したように態度が軟化したためストレスで壊していた胃腸や不整脈はアッサリ回復し、帯状疱疹はそれでもなかなか消えなかったが、とにかくそれまでの1年半が嘘みたいのようだった。

人生の本道に行くためにデザイナーになることを決意

正直なところこれなら辞める必要はないような気もしたし、すっかり気を良くしたのか所長は僕を出世ルートに乗せるよう画策していたようだったが、予定通りちょうど2年で退職した。辞めるなら辞めるであの恐ろしい所長から1ヶ月以上も熱心な引き留めにあったのは意外と言えば意外だが(もちろん売上が上がる前なら引き留められなかっただろう)、今と違って転職はまだ世の中的に活発ではなくエージェントとかもない時代だったものの、営業ではどこまで言っても出入り業者だし(一度どこかの病院の院内システムの納品時に「業者」と言われて地味に傷ついたのを覚えている)、そもそもこんなに全身全霊、必死にやらないと仕事が成り立たないなんて学生の頃は知らなかったので、それでもやりたいと思える仕事をしないと人生に勝てないと思ったのが大きいのが本当のところだったりする。それで選んだのが「グラフィックデザイナー」だったわけだがそれはそれで親はもちろん会社の誰にも理解はされなかった。ただ、新卒で入った最初の会社で仕事をするということに対してリミッターが外された状態の僕にとっては、その後の人生はそういうところで苦労したことはなく、どの会社に行ってもだいたい2年くらい働けば細かいことはさておき大枠学ぶことはなくなる感じだった。その後キャリアップの転職を何度かしたのち、フリーランスとして独立、2年後には法人化まで行けたのだから、24歳の僕の決断は結果的には正しかったと言えるだろう。

会社を辞めて数日経ってから、僕は遅まきながらようやく大人になったのだ、自分の責任で自分の力で生きていくのだと強く思った。最初に勤めた会社はあまりに辛く我が身の不幸を呪ったものだが、20歳そこそこの年齢でそういう自分になれたのは、今からするととてつもない幸運だっただろう。これが順番が逆だったら目も当てられない。

ついでに思い出したこと①

僕自身も当時勘違いしていて、自分が辞めるのはその2年目の所長があまりに恐ろしいこともその一因としてあったと思っていたが、後から思うとたぶんそうではなかった。実は1年目と2年目では営業所のトップの営業所長は別の人だったのだが、そのキャラクターというか人間的なタイプもまるで違っていて、1年目はインテリ型と言うか理屈と独自の理論で嫌味と高圧さで追い込んでくるタイプに対し、2年目の方は鋭いナイフのようだと形容したけど怒号と恐ろしさはすごいがカラッとした男気タイプだった。

ともあれ、会社を辞めてから2、3ヶ月の頃、それは急にやってきて、毎晩のように当時の悪夢にうなされるのだ。ちょっとやそっとではなく毎回汗びっしょりになるほどで、夢自体もとても長く朝の目覚めも吐き気がしたものだが、大抵出てくるのは2年目の所長ではなく1年目の所長の方だった。実に嫌な感じで業務上の色々なことを言われたし、指示が間違っていたこともかなり多くて客先でも社内でも変な矢面に立たされたことも多かったのだが、たぶん途中から心の中に入ってこないようシャットアウトしていたのだと思う。そしてそれは自分自身すらも気にせず忘れていたことばかりなのだが、会社を辞めてから数ヵ月経って心が緩んできてそうした封印していたことが出てきているかのようだった。毎日毎日一つ一つ夢の中で苦しめられ、そんなことが1ヶ月くらい続いただろうか、もっとだった気もするしそれくらいだった気もするのだが、その悪夢が一通り終わると今度はスーっとした爽やかな精神が帰ってきた。それはかなり久しぶりに感じる素のままの自分であり、それらが本当に心にダメージを負っていた心的外傷であったことを悟った。そしてそうしたトラウマは封印されているだけでは駄目でもう一度向き合ってその後に癒しに向かわないと克服できない性質のものであることを我が身をもって知った。逆に言うと2年目のあまりにも恐ろしい所長にはトラウマはなかったとも言える。それはそれで僕にとってはひとつの教えとなった。裏表のない人間性というのは人に対してぶつかる時、怒らなければならない時にこそ、その後にしこりを残さないために必要なものなのだと。

ついでに思い出したこと②

「わかるわけないじゃないですか、教えてくださいよ!」僕も習った覚えはないのだが、後輩にそう居直られると意外と対応せざるを得ない。それは2年目に超絶態度の悪い、と言うか当時の狭い僕の理解の範疇になかっただけなのかもしれないが、とにかくそんな感じの後輩が入ってきて、村八分状態で無限ループに陥っている僕でも教えることは教えなければらなくなった。「あいつが教えることなんかあるのかね」とでも言ってそうな周りのシラーっとした視線が実に針のむしろな気もしたものの、それでも僕の方は僕で彼に同じ目には合わせられないという思いもあってか、結構親身になって接していたつもりだったりするのだが、その態度の大きさは当然僕だけでなく一回り以上上の周りの人たちにも及び、あちゃーと内心思っていると、その結果もまた僕の想像を超えていた。結局あの人たちもそう来られるとなんだかんだ言って構わざるを得ないのだ。僕はそこで今もやっている一つの大事なことを学んだ。わからないことをわからないとハッキリいうこと、なおかつ堂々としていること、先輩だからと言って不必要に恐縮しないこと。このクソ生意気な後輩が僕の人生に与えた影響は実はとても大きく、今なお打ち合わせや折衝時の話法に活きていると思うし、そうした言わば空気をあえてシカトするような態度は、特に物事を学ぶフェーズでは相手から引き出し吸収するスピードを最短のものにした。その後輩とは特に仲良くしたわけでもないが、営業同行などしていても不思議と気は合ったように思う。ある時営業車の中で彼は彼で僕のことをこう呟いていた。「そりゃあれだけ客と距離が近ければ売れますよ」と。2年目の秋口くらいの頃で、ようやく売れ始めた時期だったと思う。正直何様目線かよくわからないが、内心自分にできないことを平然とやってのける後輩には敬意もあったので、それはそれで素直に嬉しかった。

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