デザインという仕事

デザインは好みなのか?

 
「グラフィックデザイン」と言われるととても高尚な感じがして、クリエイターと名乗る人たちがさぞ難しい顔して「これはデザインだ」とか「これはデザインじゃない」とか議論してそうなとっつきにくいイメージがあるかもしれませんが、例えば街中をぶらりと歩いていて無数にある飲食店、わかりやすく中華屋にしましょうか、その真っ赤なベタ色の上に黄色い文字で書かれただけの看板、これも立派に「デザイン」であり、デザイナーにしろデザイナーじゃないにしろ誰かがデザインをして、誰かがそれにOKを出さないとこの世には存在しえません。その意味ではこの世にある人の手を介したあらゆるものは「デザインされたもの」であり、そのほとんどは「誰かがOKを出したもの」です。そして、そこには意図があります。先ほどの中華屋の看板であれば中華屋だとわかるものでなければ、その役割を果たすことが難しくなります。もちろんそこにはニュアンスの違いだったり、お店としての方向性の違いだったり、店長の好みだったり、その他様々なものが加味されることもあるとは思いますが、大事なのは「デザインは意図されたもの」であるということと、「誰かがOKを出したもの」ということです。本質的には前者だけでデザインは成立するのですが、仕事としてデザインをしている場合は後者も必ずついてきます。

 
「そんなことは当たり前過ぎてわかってるよ」と言われそうですが、あらゆるデザインの仕事はこの中で成り立っているにもかかわらず、いざ自分がデザインをする際にそれらが抜けてしまうというケースはかなり多いのではないでしょうか?問題はデザイナーが自身の好みとかで自己実現をすることではなくて(それがなければないで実はちょっと困るのですが)、それが誰にどう伝わるようにできているか、突き詰めればデザインはそれだけであり、それがクライアントにOKをもらえれば良いというとことにあるのだから、まず大事なのはそれを見る人(マーケティング的にはターゲット層)に対してどう伝われば良いか、そのためにデザイン的には何が必要かということになります。ひょっとしたらすでに世の中に出回っているようなオリジナリティは低くてもわかりやすいものかもしれないし、競合他社にはないようなオリジナリティの高いものかもしれないのですが、それとデザイナーの好みはほとんどの場合直接関係がないにもかかわらず、好みだけでデザインをする、あるいはディレクションをするという人があまりにも多いように思うのです。それでもデザインはともかく、特にディレクションを好みでやられてしまったら、たぶんその下でデザインをするデザイナーは不幸でしょう。お客さんの好みならまだしも、ディレクターなんていうのはしょせん外注業者の一個人でしかないのだから、その好みがビジネス上正しく訴求できる確率はかなり低いからです。あまり実力のない制作会社や印刷会社のデザイナーが「変わったものは通らない、オリジナリティのあるものは通らない」と思い込んでいるケースがありますが、それはだいたいにしてディレクション側がデザインのことをよくわかっていないのに他なりません。矛盾するようですが、デザインのクオリティと好み・個性もまた無関係ではいられないので、クオリティの高い仕事をするためには好みそのものは必要だけど、その活かし方・デザインとしての成立のさせ方がディレクションできていないのです。

 

まずはレイアウトを完璧にする

 
これもまた「何をもって完璧と言うのか?」とか言われそうですが、レイアウトが美しければそれで十分な仕事というのはすごく多いです。レイアウトがきちんとしているものは内容がきちんと伝わるため、それだけである程度訴求力があります。逆にレイアウトが不安定なものは、レイアウトとは別次元であるはずのデザイン表現自体が駄目だと思われがちで、お客さんとかプロではない人がデザインとレイアウトをごっちゃにしてしまうのは良いにしても、プロのデザイナーとしてはデザインとレイアウトはきちんと分けて考えた方が良いです。レイアウトは「誰が見てもおかしくない」というレベルでOKなのですが、これがやってみると実に奥が深く、デザインが好きで死に物狂いでやったとしてもたぶんこれだけで5年〜10年くらいかかるでしょう。全体のカテゴリーの分け方、その中の文字の大きさ、書体の使い方、色の使い方、写真の使い方、etc…。個人的にはこういったレイアウトがきちんとしているか・していないかで、基礎ができているか・できていないかを判断して良いと思います。デザインも一つの専門職なので、何年やっても駄目なものは駄目だし、できているものなら新人でもOK、センスではありません、これは「技術」です。日本語のレイアウトできちんとできれば外国でもそれは通用します。視野の中で情報がどう見えるかはたとえ言語が異なっていても同じだからです。

 

そこからがデザインの問題だ

 
デザインは視覚的に「見てわからせるもの」です。前述の通りレイアウト的にきちんとしていれば、見出しがまず見えて、中身が理解できるようにできているでしょう。ですが、それ以外の部分というのが実は印象を決め、メッセージ性や世界観を決めます。デザイン的な表現がどうあるべきか、それが冒頭の「好みじゃないよ」という話になるのですが、ではなんなのかと言うと、誤解を恐れずに言えば、それは「共感」です。デザイナーというのはターゲット層に対し「意識的に共感させる」ことで、「これって自分が求めていたものかもしれない」と思わせることができます。だから「ターゲット層にどう見えるか」がとても大事で、多くの場合デザインする自分はターゲット層ではないのだから、その仕事をデザインしている間、一時的に共感する必要があるのです。その意味では「誰かがOKを出したもの」というのは少なくとも「これなら伝わる」と判断された結果であるということです。だから、そういったものを仕事として生み出すデザイナーは感受性が高くないといけません。世の中にあるあらゆるものにその良さを感じていないといけません。自分的に興味がないものでも感じないといけませんし、なんなら自分的に嫌いなものでも感じないといけません。個人としての自分は嫌いでも、プロのデザイナーとしての自分はその良さに共感し、それを伝えるデザインを生み出さないといけないからです。それがレイアウトとは異なる次元のデザイン表現としての「技術」です。

できない人ほど「こんなあやふやなものどうやって身につけるのか」と思うでしょうが、世の中には無数に「デザインされたもの」が存在します。駅には何枚のポスターが貼ってありますか?それらもすべて誰かが意図してデザインし、誰かがこれなら伝わると思ってOKを出したものである以上、どんなに陳腐なものでも、どんなにダサいものでも、「デザイン的な良さ」は必ずその中に存在します。それを感じ取り、説明する訓練をするのです。それをデザインした本人に会うわけではないのだから、本当の意味で合っているか間違っているかは問題ではなく、良さを感じ取ること、それを説明できるレベルまで咀嚼することが、自分が大して好きでもないものに共感する技術に結びつき、デザイン的なセンスも形成します。そしてそれは時代によって変わっていきます。その変化は偉そうなコメンテーターがそれっぽい言葉で言うことはできても、本当の意味で説明なんか誰もできないのだから、感性で自ら感じ取るしかありません。それができないと、たまたま自分のセンスが時代と一致した時しかきちんと訴求するデザインが作れない=枯れた人になってしまうのです。結構時代はすぐ変わります。デザインでお金をもらっている人にとっては恐ろしいことです。

 

最後の最後は「好み」に戻ってくる

 
レイアウトがきちんとできている時点でクオリティはそこそこあると思います。その上で、案件をきちんと理解し、本質を突いたデザイン表現が考えられれば、クオリティはかなり高いと思います。このレベルまで来ていれば、時代が変わっても、会社が潰れても、その人自身はその身につけたデザイン力によって生きていけるでしょう。個人的にはこの地点まで来て「デザイナーとして一人前」だと思っていますが、そこまで来てみると「その上」があることに気づきます。これまでは未熟だったからその凄みが理解できていなかったのかもしれませんが、前述のことをすべて出来ていても作れないものが10%〜20%くらい世の中には存在します。その極めて高いクオリティの領域のものを生み出すには、その時こそ自らの「好み」が必要だと思います。おそらくこれらを生み出している人たちも、全て生み出せるわけではなく、特別得意なもののみを生み出しているように見えるからです。ある意味では偏った見方で突っ走っている。それだけ好きでないと表現できないからこそ真似もできない、オリジナリティの高い世界。僕の方法論でこの先そこまで自分自身で登れるかはちょっとわかりません。登れる気もするし、登れない気もする。ディレクションに専念した方が良い気もする。ここまで来るのに10年かかったけれど、それがわかるのにもう10年くらいかかる気がします。

とはいえ、だから「好み」そのものはあってよいと思います。それだけでデザインするのが危険だと言うのと、レイアウトとデザインと双方の技術的なものが備わっていれば、好み以外のものもきちんと作れるようになるので。そして自分自身のクオリティを牽引してくれるのもまた「好み」だと思います。「ああいうものを自分で作りたい」、そう心から思えるか思えないかは言うまでもなくとても大きいわけで、こうして考えてみると、感受性が高く、感情の振れ幅が大きい人の方がデザイナー的には成功するのかもしれません。常識的な社会人とは離れていく気もしますが、たぶんこの国の常識や同調圧力に縛られていてはろくなデザイナーは育たないのも無理はないので、逆説的ではありますが、だからこそこの業界の人は皆この国の社会から浮いているのでしょう。僕は見た目が常識的なので全然デザイナーらしくないのですが、会えば会うほど話を聞けば聞くほど、変わった人だとされます。それはそうです、僕もまた一人前のデザイナーなのだから。

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