他と一緒であれば安心ですか?
別に人類が特別な存在ではないと思うのです。だから人として生まれ人として生きるからと言って、それだけであらゆる人が平等に能力や機会に恵まれたりするわけないし、充実した人生を送り天寿を全うできるわけではないという生命体で当たり前の事実が、意外と普通として通っていないんだな、と思わされることがあります。ただ、様々な道具や言語を使いこなし社会を形成して生きる人間だから、国家や政治や社会制度などで工夫して、少しでも多くの人がきちんと生きれるように努力しているだけに過ぎず、それも歴史で言えば、「平等」という価値観が当たり前のように感じるのは極めて最近だけだったりするので、10年後、20年後、50年後も今と同じような価値観で社会が形成されているかはちょっと疑問です。「平和とは無能が悪徳とされない幸福な時代」とどこかの誰かが言っていたように、最低限の生活が保障され機会が平等であるからと言って、その上で「普通」に沿って生きることが良いことかはまた別の問題で、もし「普通に」生きた結果が無能なら平和でなければ生きられない弱い個体ということになります。今が平和だと思えますか?今はともかく10年後が平和だと思えますか?20年後はどうですか?その時あなたは何歳ですか?まだ現役ですか?どうやって生きていますか?
ちょっと攻撃的な書き出しになってしまいましたが、デザインで生きるにしても同じような問題に直面するかもしれません。デザイン自体は専門的な職業であり、物事をきちんと視覚的に表現できて課題を解決に導くことのできる一人前のデザイナーであれば、きちんとしたデザインの需要は今後も減りそうにないのでこれからも困らずに生きていけるでしょうが、お客さんやディレクター、上司に言われたことをそのままIllustratorで配置して整えるだけなら、近い将来「普通に」生きていくにはちょっと難しい世の中になっていくと思います。まぁとは言っても前述の通り、元々世の中は生きていける人しか生きていけないのだから、正直その時はもう仕方ないのですが、多分そうなった時にその人は「仕方ない」と自分を納得させることは出来ないのではないでしょうか?そしてそういうタイプの人が目をつぶり続けているであろうもう一つの事実があります。それは、何年キャリアを積もうがきちんと課題を理解し、デザインで表現できないならデザイナーとして一人前ではないということです。一人前のデザイナーにはちょっとやそっとの努力では全然なれないし、仮に一人前と言えるくらいになったとしても、デザインにおいて永久に答えのないものに向かい続けるということに変わりはないのです。
デザインに「普通」なんかない!
だから、「普通のデザイン」なんてありはしません。「敵を作らないデザイン」なんてものもありはしません。あるのは何をどう伝えるか、というだけであり、その時に大企業のビジネスツールとして信頼感が必要であればショッキングな表現を避けることはあるでしょうし、後発企業のデザインでインパクトを出したいなら奇をてらった表現もあるでしょう。デザインを分かっていない人ほど、クライアントの会社を知ろうとしないし、商品や製品も知ろうとはしない上、案件の意図なんか考えもしない。「デザインをする」ということがそもそも「普通」じゃないのに、そういったデザイナーは一体何がしたいのか。趣味でデザインがしたいだけなのか、何なのか。新卒1年目ならまだしも、何年も何十年もやってそれならもう諦めた方が良いでしょう。M-1グランプリが単に若手お笑いのコンクールというだけではなく、10年お笑いやって芽が出ないなら辞めた方が良いという意図もあったのと同じような気がします。お笑いほどデザイナーはシビアじゃない気もしますが、20代のうちについてしまった成長の差が埋まることは残念ながら一生ないだろうし、成長できなかった大人を誰も同情はしないでしょう。それこそそんなものです、それは「普通」のことなのです。
今日ここで言っていることはきちんとしたデザイナーなら誰もが当たり前に持っていて、その上で自分がクリエイターとしてどうありたいか、今の仕事をどういう風に表現したいかを考えています。そういう人からすれば大して威張れるものでもなければ人に話すような話でもありませんが、もしあなたがこれを読んでいてギクッとした未熟なデザイナーであるなら、今一度自分の仕事、自分のデザイン人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?のんべんたらりと毎日朝から晩までMachintoshに向かっていても何も変わりはしないし、時間が経てば経つほどもうあなたの人生はもう手遅れになってしまうかもしれませんよ。